獣の算段














深紅の絨毯がのびる長い回廊を、年老いた女官と一人の男が歩いて行く。

ゆっくりとした歩調で男を案内しながら、腰の曲がったその女は、よくこの王宮を訪れるようになったこの男に、自身の主の近況を交えて世間話をしているようだった。
目元に笑い皺をつくった人の良さそうなこの女は、話の合間、あいまにその男の顔を見上げては満足そうに皺を深めて微笑している。
しわがれた声に親しみが滲む。

「昨晩は随分遅くまでお父上様と、しきりに政のお話をなさっていたようでございます。生来、根を詰め過ぎる所があの方の困った所で。私のような年寄りはただただ、お体の心配ばかりしておりますよ。」
「そうか。」
「でも、貴方さまがこうしていらっしゃるのは本当に久しぶり。ご無事で何よりでございました。」
「そんなになるか。春先に一度立ち寄っただろう。」
「もうすぐまた、その春にございます。姫さまのスケジュール表から、元気な花丸印をお見かけしなくなって随分になりますよ。」
「……花丸…。」

応える男は簡素な白い法衣を纏った剣士で、腰に長剣を一本携えている。
声から察するに、歳若い青年のようではあるが、着こなした法衣の端々から伺えるその姿は、常人とは遥かに異なる、奇妙なものであった。

顔全体を覆うのは群青の岩。
左右からは獣を彷彿とさせる尖った耳が大きく張り出し、
踏み出すたびに、冷えた音を立てて瞬くのは、まばゆいばかりの針金の髪である。
顎、眉と、不規則に小石が隆起して埋め込まれて出来たその顔は、彼が魔術の力をもって生み出された者である事を示していた。

およそ人と呼ぶには似つかわしくない特徴ばかりをかね備えた彼を、何故青年と呼ぶかといえば、人造のゴーレムにはあるはずのない、意志を宿した青い瞳が、それを躊躇させるからだ。
白金の髪の間から伺えるその横顔は、ほの暗い影を引く、なかなかの美丈夫である。

長い旅を続けてきた男の靴は傷んではいるものの汚らしさは感じられず、まめに手入れをされた旅装束からは、自然と彼の人柄を伺わせる。
纏う空気こそ、一瞬見るものをこわばらせる程の険しさをはらむものの、かつて纏った、白日の下で生きる事の叶わぬ者特有の、もの憂げな気配とは異なっていた。
一国の城内にあっても物怖じしないその態度と、彼の重厚な身体を運ぶ足裁きに下賤の卑しさはない。

名はゼルガディス・グレイワーズ。

賢き聖人「赤法師レゾ」と人々が崇めた、レゾ・グレイワーズその人の血を引く者であった。
もっとも、その賢者の素顔には、ごく少数のみぞ知る、隠された秘密があるのだが。


すっかり見慣れた扉の前に二人並ぶと、女が軽く叩く。

「アメリアさま。素敵なお客様がおいでになりましたよ。」

しかし、女官が声をかけるも、中から返事は返ってこない。
不思議そうに首を傾げた老女とゼルガディスが、互いに顔を見合わせる。
しばしためらった後、彼は滑らかなその取っ手に手をかけた。

戸を開くとそこは、清潔感と品を兼ね備えたまさしく王女の部屋である。
落ち着いた黄色にシンプルな草の模様で縁取った壁には、何故か猛々しく主張する「Victory」と大きく書かれたタペストリーが、一枚飾られている。
相変わらずの懐かしい光景にゼルガディスが半目になりつつ、天蓋つきのベッドに目を走らせる。
淡い桃色のドレスの裾が垂れ幕の向こうに見えた。
部屋の主、アメリアはドレス姿のままで身を横たえて深い眠りについているらしかった。

「…確かに、少々まいっているようだな。」
「いかがいたしましょう。お起こしいたしましょうか。」
「いや、かまわん。フィルさんから許可も取っていることだ、先に蔵書にでも目を通させてもらう」
「そうおっしゃるゼルガディス様も、長旅でお疲れなのでは。今は、少し休まれてはいかがですか。…今朝方早くに着いたばかりなのでしょう。」
「せっかくだが、俺は時間が…」

気遣わしげな女官にそれでも、惜しいのだ。と続けようとして、口を噤む。
暫く考えこむように顎に手を添えてから、
意外にも、ゼルガディスは「此処で待ってもかまわないか。」と尋ねるのであった。







女官がゼルガディスを残し部屋を去ると、
彼は手近のソファに腰を下ろして、アメリアが目覚めるのを静かに待った。

アメリア・ウィル・テスラ・セイルーンはこの国の王子の第二息女であり、
同時に、ゼルガディスのかつての旅の仲間、彼女いわく「正義の仲良し四人組!」の一人でもある。
その性格は猪突猛進で盲信型。
弱者を守る為ならば、自身の危険をも省みない程、正義に厚く、
その心が気にかけるのは専ら他者の幸福であって自身は二の次。
罪を憎んで人を憎まずが信条の娘である。

ピンクの縁取りのついた白い旅装束姿に、深い藍色の眼。
烏の濡れ羽色の髪を肩口で留めたその姿は、賞賛に値する美貌の持ち主なのだが、その実、愛と正義の為なら、素手で魔族をも砕き、大国の姫君でありながら、顔から地面にめり込む事にも、なんのてらいもない。
彼女は超合金娘の異名を誇る、生粋の戦士なのである。
そして毎回、彼女が正義を広めるその傍らで、他人の振りに徹する事も出来ず決まって渋面を作るのが、ここにいるゼルガディスであった。

しかして、そこに横たわる少女に道中間近で見たその破天荒な面影は見当たらない。
誉高き、セイルーンの姫君がただそこにあるだけだった。

ベッドから大分離れたそこから、ゼルガディスは戸の影からは見えなかった彼女の顔をやっと伺うことが出来る。
久方ぶりに目にしたその姿に、ゼルガディスの心は知らず揺れるのだった。

ビロードのように艶やかな黒髪がシーツに零れ、ほっそりとした腕は淡い桃色の下地に白いレースをあしらった袖に包まれて、ベッドの上に投げ出されていた。
彼女の声高に叫ぶ正義に相応しい、その澄んだ双眼は、今はひっそりと睫が伏せられて見ることが叶わない。

ゼルガディスは法衣とそろいの白い手袋から覗く、岩の指を見やる。
明けど暮せど、思い出さずにはいられなかった少女を前にして、平静を保っていられるのは、ひとえに、「この手は、少女を連れ去れるだけの十分な魔力を持っている」という邪な自負、と同時に「自分は決してそれを望む事はない」という決意にも似た確信が、彼に安寧をもたらすからだ。
抜き身の凶暴とそれを一瞬で握りつぶせるだけの意志の閃きが、青年ゼルガディス・グレイワーズの精神を、この虚しい異形の獣に繋ぎとめている。


理に従ってこその、人間だった。


とりとめもない考えに自嘲しつつ、言い聞かせるのか誤魔化す為か。
首を振りふり一つため息をつくと彼は席から立ち上がった。
夢の中の人を起こさぬようにそっと移動し、外の空気が吸いたくて、
王宮の庭園を遠くに控えた窓を押し開けた。

途端、部屋いっぱいに広がるのは、冷たい帳を捨てた、春の風だった。
温かさに混じって、咲き始めた草木の香りが心地よい。
よくよく考えてみれば、道中、数え切れない程の緑を踏みわけここまで辿りついたというのに、厚い城壁の中にあって、始めて季節の移ろいに気が付くというのも妙な話である。

穏やかな寝息を立てるその人と、開け放した窓を交互に見比べ、そのままにして戻る。
腰を下ろした先で、再び身じろぎ一つしないアメリアを見やるが、習うように自分の瞼も重くなるから仕方がない。

実際此処まで辿りつくには、なかなか一筋縄では済まされなかったのだ。
合成獣の肉体も今は休息を求め、自分もそれに抗う理由は何処にもなかったのである。







ゆっくりと身を起こしてから、アメリアは乱れた髪を撫でつける。
「…わぁ!」
すると目の前に、予想外の人物の来訪を認めて、小さく感嘆の悲鳴をあげた。頬杖をついて、自分のソファで眠りについているその人を見間違えるわけがない。

ドレスの裾を急いで持ち上げ、抜き足差し足しつつ、歩み寄る。
近づいても決して消える事のないゼルガディスの姿に、初めてアメリアの顔が綻んだ。
アメリアは尋ねたかった言葉が胸の内で、堰を切ってあふれ出しているのを感じるものの、
喉につかえてままならない。
やっと弾けたのは囁き程度の呼称である。

「……ゼルガディスさん…!」

おそるおそるゼルガディスの頬に手を伸ばせば、すかさずゼルガディスの耳が機敏に跳ねる。

「…ゼルガディスさんが、眠ってる。」

その言葉に呼応して、伏せられた顔が自分に向けられ、震える瞼が徐々に見開かれる。
変わらぬその目の青さに、アメリアの頬が自然と熱くなる。

「………違う。…お前が眠っていた。…待ったぞ。」
「えへへ、嬉しい事言ってくれるじゃないですか。」
「阿呆。」

まだ眠気の覚めやらぬ青年の姿は、少女をさらうか否かなどと物騒な算段をつけていた事など、かけらも気取らせない。


没していく太陽を追うように、セイルーンの夕刻の鐘が朗々と響き渡って行った。









2009-03-30